その漆黒の髪と輝石の瞳の妖艶たるや。
 その白磁の肌と紅い唇の麗色なるや。
 さながら夜の影のやうにてありけり。
 それ故に、人は其を『月夜』とおほせたり。


 月の光に照らされる、淡く儚い華の夢。


 時は夕刻。
 家々には灯がともり始め、ここら一帯はこれから盛り上がりの様を見せる。
 行き過ぎる男達を張りのある声で誘う、着飾った女達。
 何人かの女を引き連れ、冗談めかした言葉を紡ぐ色男。
 遊郭の建ち並ぶこの界隈は、毎日がそんな光景で満たされている。

「これはこれは松方様!ようおいでになられました」
 えらく腰の低い店の主人がある男の姿を見止め、声をかける。
 松方と呼ばれた初老の男――幕府重鎮はその声に気づき、主人に返答した。
「待たせたな主人。今夜も邪魔させてもらうよ」
「いいえとんでもございませぬ。ささ、どうぞこちらへ…
 えぇと、失礼ながら隣のお若い方は…」
 主人は重鎮の隣に立つ、若い男に目を向ける。
男の代わりに松方が答えた。
「こやつはわたしの身辺警護をやらせている緋龍という者だ。
 心配には及ばぬ」
「はぁ。左様でございますか。
 では、今夜の敵娼(あいかた)は如何致しましょう?
 いつものとおり、芳野太夫でよろしいですかい」
「ふむ。頼むよ」
 心付けを渡された主人はかしこまって奥に下がり、代わって現れた妓夫(案内役)が 彼らを座敷まで案内していく。
「…松方殿」
 座敷に通されてすぐ、今まで黙っていた若い男、緋龍が初めて口を開いた。
「先ほどより幾度も申しておりますが、わたくしはこのような場所に揚がるような分際では…」
 それを聞き、松方候はさも愉快そうに笑って言う。
「まあよいではないか緋龍。浪人とはいえ、今はわたしの警護を頼んでいる身だ。 供人として座敷に揚がるも奉公であろう?」
「されど…」
 緋龍がもう一度反論しようとした時、座敷と廊下を隔てるふすまがすっと開かれた。
 それに続いて座敷に一歩踏み入れたのは着飾ったひとりの幼女。
 禿(かむろ)というのだったか。花魁について雑用などをする少女のことだ。
 彼女は深々と額を畳に擦り付けるほどの一礼をし、告げた。
「芳野姐さまがお揚がりで御座りまする」
 程なくして、一目見ただけで素材の高級さが推し量れる装束に身を包み、輝く黒髪を複雑に結い上げたひとりの女が、もうひとりの禿を従えて座敷に現れた。
 白粉をはたき、紅を刷き、その姿はこの上なく艶やか。
 この遊郭で最高位の花魁、芳野太夫だ。
「おばんどす、松方はん」
 紅い唇で彼女は言葉を紡ぎ、ふたりの禿を下がらせる。
「では松方殿。わたしも座敷の外にてお待ち申し上げるゆえ、これにて」
 幼女が座敷から下がるのと同時に、言って緋龍も座敷を下りる。
 座敷が暖められていた所為か、座敷から漏れる明かりに照らされるだけの薄暗い廊下は思っていたよりずっと寒く感じられた。
 緋龍は着物の合わせを引き寄せながら、廊下の隅に腰を下ろす。
 そのとき。
「――そんな寒いところにずっと居たら風邪を引くわよ、お侍さん」
 不意に、上から降ってきた声。
 ざっと弾かれるように緋龍は警戒の構えをとる。
 ――こんなに側に近づかれるまで、自分が気配を感じ取れなかったなど。
 思ってふと視線を上げたその先に映る、鮮やかな緋色。
 視線を上へと移す。
 緋色の地に描かれた、絢爛の花々。紅の帯。漆黒の、絹糸のような髪。細い首筋。
「風邪ひくわよ、お侍さん」
 その、桜色の唇がもう一度言葉を紡ぐ。
 白雪の肌に映える、その赤。
「…誰だ?」
 原因はわからない、わからないけれど上擦りかけた声を寸前で抑えて緋龍は問う。
 微かに動く紅い唇。
「月夜」


 ツキヤ。


 その、容姿にそぐわぬ艶のある笑み。





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