「いくらお客さんの付き人だからってあんな寒いとこに居る必要ないでしょ?まったく、『ド』がつくくらい律儀なのねアナタ」
 少女は部屋の行燈あんどんに灯を燈しながら嬉しそうに言う。
 促されるままに座敷に通された緋龍は、部屋の隅に座ったまま黙ってそれを聞いている。
 少女の名は月夜、つい先日まで振袖新造だった、遊女になったばかりの娘だ。
 先程の座敷は最高位の花魁の部屋、今度の部屋はそれと比べればえらく質素なものであったが、それでも駆け出しの遊女としてはまだましなほうではないかと思われた。
 改めて緋龍は月夜を眺める。
 青く見えるほど白い肌、漆黒の髪。
 そのか細い体を包む、不釣合いなほど豪奢な着物。それは見ていて痛々しささえ感じさせる。
 こんな少女がこの陽の射さない見世の中で、陽の落ちた真夜中に『仕事』をしているなど。
「ちょっと、なんでさっきから黙ってるのよ?折角座敷に通してあげたんだから少しくらい愛想良くしなさいよっ」
 思索に耽っている最中に突然横から大声を出され、緋龍は危うくつんのめりそうになった。
 何故こんな年端も行かない娘に自分がこんなにもペースを乱されているのか。
 憮然として緋龍は答える。
「…頼んだ覚えはないが」
「あらやだ。じゃあアナタはあーいう狭くて寒いとこに廊下を渡る人の邪魔をしながら芳野姐さんのお客が出てくるまでずーっといて、帰って風邪を引いてお仕事まっとう出来なくなっても良かったってわけね?」
「・・・・・・」
 痛いところをざくざくと突かれて緋龍は黙り込む。
そしてやられっぱなしでは面子が立たないと、苦し紛れに口を開いた。
「…お嬢さん」
「月夜、よ」
 すかさず訂正が飛んでくる。
 黙っていれば黙っていればため息が出るほどの美貌を持っているくせに、こういうところが可愛くないのだ、彼女は。
 短い時間で彼はつくづくそう感じていた。
「では月夜。齢はいくつだ?」
「いきなりにしてはけっこう無粋なこと聞いてくるのね。
 まあ黙られてるよりはマシだけど。歳は十四よ」
 ふふ、と笑みを零しながら月夜は答える。
 その答えに緋龍は絶句した。
 たった十と四。
「十四?そんな餓鬼になにができる」
 心中の動揺を悟られぬように、敢えて揶揄を込めて答えを返す。
 たった十四の娘がこんな仕事をしなければならない。
 その事実に、胸が痛む。口を開く。
「何故お前は…こんなところで働いているのだ。お前のような齢の娘が働くならば、もっと他の場所もあるだろう?何故こんな、自分を犠牲にするような場所で…」
 その問いに、初めて月夜の表情が変わる。
 外から聞こえる三味線の音と、酒に酔った人々の笑い声。
 それらが今は、無性に遠く聞こえた。
「――あたしの名前は」
「え?」
 唐突に紡がれた彼女の言葉に、緋龍は虚を突かれて聞き返す。
「あたしの、『月夜』という名は本当の名前じゃないの。これは、ここに初めて連れて来られたとき、出逢った姐さんがあたしにつけてくれた名前」
 ――あんたにぴったりの名前をつけてあげるわ。月夜っていうの。
 ――だってほら、あんたのその顔。真っ白で、透き通って、黒い髪に良く映える。
 ――あの中天に浮かぶ、月の光のようだろう?
「姐さんはあたしをいちばん可愛がってくれた。禿(かむろ)として出来の悪かったあたしを、実の妹のように、大切にしてくれた」
 彼女からはたくさんのことを学んだ。作法、規則、噂話。
 それなのに。
「姐さんは死んだ」
 ポツリと、月夜が呟く。
 元々遊女の命は長くない。一日中薄暗い屋敷の中にいて免疫力が低下している上に、外からいろいろな悪い病気ものが入って来易い環境だからだ。
「あたしが振袖新造になってすぐだった。
 あたしは、姐さんの名代(妹分の遊女)になるのが夢だったのよ。なのに。
 …人の死なんて、あっけないもんだわ」
 言って月夜はその大きな目を伏せる。
 人の死。
 剣客という商売柄、常にそれを身近に感じている緋龍にとって、彼女の痛みはあまりに遠い。
 けれど。大切なものを失う痛みは、彼にも届いた。
「あたしは一生ここで働くことに決めた。姐さんとの思い出を、いつまでも忘れない為に」
「…忘れない為?」
 緋龍はその言葉を繰り返す。
「そう、忘れないため」
 答えて彼女は薄く笑った。
 今までの気丈なそれとは趣の異なる、蜻蛉のような果敢無い微笑。
「存在を忘れ去られたら、人間おしまいだわ」
 そして、月夜は静かに立ち上がり、障子の嵌められた小窓へと近づいていく。
 その細くて白い指先に力を込めて、静かに押し開いた。
 既に闇と化している空の中心に、青白い月が輝いている。
「…あたしも、いつかは忘れられる。そう思ってたから、この名前には感謝してるの」
 空に月が浮かぶ限り、ひとは、それを見て自分を思い出してくれるかもしれない。
「…傲慢かもね」
 月の光に茫と照らされる、彼女の横顔。
 その姿は『月夜』と云う名に相応しく、果敢無く、高貴で、そして。
 ――美しかった。
「月夜」
 緋龍はその名を、呼ぶ。
「俺は、忘れない。絶対に」
 その場凌ぎの嘘ではない。心の底から、そう思ったから呟いた。
 月夜は多少驚いたようだったけれど、すぐに優しく微笑んで言った。
「――ありがとう。
 そういえば、アナタの名前。聞いてなかったわね」
 一瞬遊女の顔に戻り、月夜は問う。
 その仕草に、まだ胸の痛みは残るけれど。
「…緋龍」
 素直に緋龍は名前を告げた。
 …絶え間なく人の出入りがあるこの遊郭という空間で、彼女もまた、自分のことを忘れないでいてくれるだろうか。
「緋龍。あたしも、アナタのことは忘れないわ」
 そろそろと、伸ばされた腕。
 その細腕を、優しく、取る。
 中天に浮かぶ月。
 その青白い光に、意識が溶けた。


 数日後。
「ああ、月夜かい。あの子は死にましたよ」
 その言葉を、緋龍はにわかに信じられなかった。
「可哀想に、元々体が弱かったんでねぇ、このところの心労がたたって臥せりがちになってたんでさぁ」
 ――緋龍。
 声が、甦る。
 ――あたしも、アナタのことは忘れない。
 緋龍は空を見上げる。
 この間とは形を変えているが、それでも尚、空に在り続ける月。
 その光に、緋龍は小さく呟いた。
「忘れないよ、月夜」

 今夜もまた、美しい月の夜だ。





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